2.川越駅から | |
東上線川越駅改札口 市内観光の中心部へは改札口右側の東口が出口です。川越駅は橋上駅です。駅を出るとデッキというのかプラットフォームと言うのかわかりませんが、高架の遊歩道があり、その上を歩くことになります。道なりにJRのアトレビルの中を抜けるとサンロード(まるひろ通り)に抜けます。お買い物目的の場合はこのルートを取ります。もし市内観光に向かうのでしたら、デッキ下のバスターミナルに降ります。仲町・幸町・一番街あたりを通るバスをご利用ください。神明町車庫行きがわかりやすいでしょう。 | |
サンロード入口
駅前からみたものです。このあたりは休日はいつも大混雑です。しかし、これでめげてはなりません。 |
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サンロード商店街望観 この商店街をもと「まるひろ通」と称したのは、その中間点にこのデパートが存在するからです。というよりも「まるひろ」がいまでもこの商店街の核です。「まるひろ」は店名に「まる」を関していることからわかるように昭和20年代後半に流行ったクレジット販売(分割払い方式)の百貨店がもとの姿です。面白いことにこの経営者は川越市民ではなく飯能の材木商であると聞いています。 | |
この商店街はいつも更新している。 この街はいつの間にか若者が支持する商店街に変身しました。20年前はいかにも堅気の商店ばかりだったのが今は若者を集める街です。商店が生き残る方程式をいつも実践しています。だから私ごとき老人には身の置き場がありません。でも少し町の中心部に入れば中高年癒し系の店があります。サンロードは若者向け、一番街あたりは年寄りがいてもおかしくない状況を作っています。川越は商業都市なのです。 | |
3.桜の名所 | |
申し訳ありません。今年の桜はご存知のとおりずいぶん早めに満開を迎えてしまいました。だからこのページをアップロードする時には、もう葉桜でしょう。来年はきっと間に合わせます。 念のため、お勧めの場所をいくつかご紹介します。地図もなくてすみません。 おすすめ名所 喜多院境内 中院境内 赤間川堤 |
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4.日枝神社 | |
日枝神社鳥居と本殿 喜多院駐車場から日枝神社を望む |
喜多院の山門を出ると目の前に小高い丘が見えます。この丘の上に小さな神社があります。これが日枝神社です。この小さな神社を東京に分祀したのが現在の赤坂山王社である日枝神社とはお釈迦様でも気がつくめえです。 神社の掲示板にかかれていた文をご紹介します 「日枝神社は、俗に日吉といい山王権現とも呼ばれている。毎年四月上旬の申の日に例祭が行われる。ここに日枝神社が祀られているのは、喜多院の草創時に比叡山坂本の日枝山王社を勧請したものと言われている。 この日枝神社を太田道灌が文明十年(1478)六月、江戸城内紅葉山に分祀したことが、「落穂集」「江戸砂子」などに記されており、のちに麹町永田町に移され、天下祭りで知られる赤坂山王の起源となったことは有名である。 本殿(国指定重要文化財建造物)は、朱塗りの三間社流れ造り・銅板葺で、規模は小さく簡素である。この本殿が寛永15年(1638)の大火後の再建なのか、あるいは、それ以前の建築なのかははっきりしないが、建物の一部に古式造りが認められるので、室町時代末期説もある。厨子は神輿形をした木造で、中に安置されている御神体は、大山咋命を僧形にあらわしたものだと伝えられている。」 昭和57年3月 埼玉県 川越は地下水に恵まれていました。入間川をはじめとして多くの河川がこの地域に集中しています。また宙水も多かったと聞きます。あたりが水不足に悩んでいるのにこの地域だけは水がかれることはありませんでした。日枝神社の本殿の右側に「無底坑」の碑があります。江戸時代、慈覚大師の遺跡を求めてこの地を掘ったところ水があふれ出て窮りなかったと言う碑です。昭和45年にも工事中水があふれ出たという記録があります。武蔵野はどこでも水がなくて困ったところです。夏には河川だって瀬切れといって川の流れが地中に消えたくらいです。水が溢れるほどの特殊な地域は絶対聖地だったと思いますがどうでしょう。 |
5.喜多院 | |
喜多院は無量壽寺の北院でした。はじめはこのほかに中院と南院がありました。中院は今もあります。南院は現存しません。喜多院の見ものは江戸城紅葉山から移築された春日局ゆかりの建築物、多宝塔、五百羅漢などでしょうか。喜多院は天海が入った頃から「天台宗」です。護摩を焚いてのご祈祷が受けられます。 |
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喜多院遠景 喜多院の本堂前庭から多宝塔を見た風景です。この左に本堂があります。前庭は桜の名所です。花時は東京で言えば上野忍ヶ丘の情況を呈します。境内地を区画割し花見に開放します。もうどんちゃん騒ぎです。平和の象徴(?)のハトが住み着いています。うっかりしていると頭をかすめて飛行していきます。カラスのごとく背後から襲ったりはしませんからご心配なく。 | |
本堂遠景 手前の木々が桜です。 | |
喜多院の鐘楼 彫物と彩色が売りです。 | |
多宝塔 30年程前は本堂と寺務所を結ぶ渡り廊下の中間点に建てられていました。参観のために寺務所から入り本堂に向かうとき多宝塔内部の仏像を拝み左右にいずれかに迂回したものです。でもはじめから渡り廊下の間にあったのではなく、江戸時代にさかのぼると日枝神社と喜多院の間にある古墳跡の上建てられたようです。いまは多宝塔内部は公開していません。 | |
慈眼堂 天海僧正の姿を写した像を祀るお堂です。手に払子(ほっす:ハエ払い)を持つ姿が喜多院の記念行事のポスターに載った事があるのでご記憶の方もいらっしゃるかも。NHK大河ドラマ「葵三代」の天海とはあまりにもかけ離れた北方ツングース系のお顔をされている。 | |
6.中院 | |
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「中院の創立の縁起は喜多院とまったく同じで天長七年(830)慈覚大師によって創立された。元来星野山無量壽寺の中に北院・中院・南院の三院があり、それぞれ仏蔵院、仏地院、多聞院と称していたものである。 当初の中院は、現在の東照宮の地に会ったが、寛永10年(1633)東照宮建造の折りに現在地に移されたものである。 喜多院に天海僧正が来往する以前は、むしろ中院の方が勢力を持っていたことは、正安3年(1301)勅願所たるべき口宜の写しや、慶長以前の多数の古文書の所蔵によって知られる。秋元侯の家老太陽寺一族の墓、島崎藤村の義母加藤みきの墓などがある。(平成4年3月 川越市教育委員会)」 天海僧正が川越にくる前は信仰の中心はむしろ中院にあったようです。 ところが徳川家康の死後、中院を無量壽寺の外の現在地に移し、東照宮をその地に建てたのはおそらくこの地の信仰の中心に徳川家康を据えようという源海の意図だったのではないでしょうか。 喜多院は東京上野・浅草の有様といいましたが、中院はどこにあてはめられるでしょう。適切な比較の相手がありませんが、どこか北鎌倉の寺の風情でしょうか。しっとりしているのです。 中院に観光客がなぜ集まるかというと、前庭の植栽が綺麗だからです。春は桜です。ただしソメイヨシノではありません。本堂に向かって右側の一角に5本ほど「しだれ桜(下の写真)」の古木が植えられています。一種類ではありません。色違いの花をつけます。毎年滝のように見事な花を咲かせます。夜はライトアップしますので遅くまで人が絶えません。この花はだいたい3月中旬には満開を迎えます。ソメイヨシノの満開はしだれ桜の花吹雪のあとです。 秋は紅葉です。紅葉の木はそう沢山はありません。ただ効果的に配置されてます。中院の門は東向きです。ということは門から境内を見ると西が背景になります。陽が西に傾くころ山門を額にして門中をやや遠めに見ると、暗い門の中に赤い逆光に紅葉がさらに赤味を増して息を飲むほどです。 喜多院は境内域が広いからその収入源をさまざまもとめることが可能です。境内域を催事に利用させたり、葬祭殿もありますし駐車場もある。江戸城から移築された春日の局ゆかりの書院、五百羅漢、多宝塔、東照宮、桜と観光施設がある。もちろん護摩修行もある。土地の賃貸料も確保できる。むかしから開かれた寺だから人集めにはこと欠きません。 それにくらべると中院は葬式寺などというといけませんが、よくあるごく普通のお寺です。寺域は結構広いので貸駐車場はあります。それ以外というと墓苑経営くらいでしょう。 でも境内地は庭師を入れて整備しています。お寺ですから「山門入るを拒まず」です。しだれ桜のそばには待合が設けてあって、数人が座れる石の腰掛があります。テーブル用の灰皿も用意してあります。人の出入りは自由ですが参観料は取りません。この状況下でこうした美しい風景を提供してくださるのは、まったく檀家の方々のご厚意であろうと、私はありがたく拝観させてもらっております。 ただ、気は心ですからお庭に入ったら本堂前の賽銭箱に直行し仏様にお念仏と拝観のお礼を差し上げます。額は些少で落ち葉ひと掃き程度で申し訳ありませんが。 |
7.仙芳上人入定塚 | |
喜多院の東側、日枝神社の南側にこの遺跡があります。「入定」とは密教系の宗派で修行をされた僧が、即身仏となるべくで自ら塚に入り飲食を絶って仏身に成る最後の修行です。いわば必死の捨身的修行なのです。本来時を待って掘り返し仏となった身を回収して漆をぬり金箔を施し祭壇に祀るのでしょうが、この塚の場合はそのままであるということは入定が完了していないことになります。 なお、この塚に関して次の2件の解説があります。両方ともご紹介しておきましょう。 仙波山仙芳塚由来記 塚碑建は文化元年(1803)。仙芳真人入定の刻がある。7000年前川越が海辺であったことは付近の仙波貝塚がそれを実証するが、昔仙人がこの丘に立ち戦術を用い海原を陸に変えたとの伝承があり、入定した聖人の真人に仙芳の姓を冠し此の地を仙波と称する様になった由来もここに在ると考えられる。 平成8年星野山喜多院これを保善改築 仙波仙芳塚縁起 7000年前、当地が海辺であった事は、近くの仙波貝塚がそれを実証していますが、此の丘に川越の大地誕生の浪漫縁起が伝えられています。 文化元年(1804)建立の丘頂の碑面には仙芳真人入定塚とあり裏面にはむかし仙芳なる真人(神仙)が龍神の助けを得て海原を干上げ喜多院の前身たる無量壽寺領を造り上げ処所に入定、当地はその所以をもって仙波と称す。と刻まれています。 仙波には大和朝廷が平城京遷都した頃の6世紀中頃、当時の豪族の築いた古墳が散在していて、近くの日枝神社古墳、慈眼堂古墳は有名です。 また此の塚からは平安時代の瓦経が出土している事実もあり、仙波は太田道灌が築いた川越城(応仁1、1467)に先立つこと数世紀前より歴史の舞台に登場しており、つまり川越のルーツは仙波、そのルーツは仙芳塚と言えます。 ちなみに今は東京大江戸のルーツは小江戸川越であることを考えると丘上の碑文は川越にとって大きな意味のある歴史的遺産とも言うことができます。 直、この西の隣地は大阪夏の陣直後の元和3年(1617)日光に移送中であった家康霊柩の大法会が天海僧正の同士により行われた本地瑠璃薬師堂があった所で、それは明治維新の上野戦争で消失した寛永寺跡に明治12年(1879)最後の将軍徳川慶喜の最後の幕臣渋沢栄一が労をとり、最後の仙波新河岸川水運を使って運ばれ本堂として移築され、現在上野で再会することができます。 此の丘に立たれ しばし歴史とのであいをお楽しみください。 |
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8.仙波古墳群 | |
白山神社祠 日枝神社 慈眼堂 |
川越市内は荒川の低湿地帯に突き出す台地の上にあります。つまりこの場所は古代から人の住める環境にありました。市内で建築物などが立てられる場合、まず教育委員会による発掘調査があるがこれによって見つけられる遺跡は中世以降の物が多いようです。ところが発掘しなくても古代のいぶきが目の前にあります。喜多院の慈眼堂、喜多院駐車場の白山神社、日枝神社、富士見やぐら、白山神社は後円部ほとんどが平になってしまいましたが、今だけでもこれだけ残っています。 川越市の南部南大塚地区には名の通り古墳エリアです。金鈴塚という円墳がありますが、ここは付近の住宅地化にもめげず保存されています。民間において古墳が大事な遺跡と認識されているからです。それは金鈴が出土したからですが。博物館で人を集めるには発掘した遺物の中で金製品を並べればよい、というのは本当です。 土地の郷土資料によるとこれらの古墳は平安時代に地元豪族が造ったという説があります。でも関東地方はこの時代大和朝廷の下にいたのでしょうから大規模な古墳を造れるはずがありません。天智天皇の御世に薄葬令が出されて天皇ですら小さな墓しか用意できなかったのですから。 西暦830年、喜多院や中院を含む無量壽寺を慈覚大師が創建する際になぜこの地を選んだかというと、この地がすでに聖地として認識されていたからだと思います。上のような既に古来から古墳が密集する中にお寺を造ったものと思うのです。 |
9.川越城武徳殿 | |
川越城の施設はすべて廃藩置県の際に取り壊されてしまいましたが、地元の有志のお力でこの武コ殿のみが復元されました。 現在は市民にイベント開催の場として開放されています。 川越城は現川越市役所のあたりに西大手門がありました。それが正門です。ここから500メートルほど東に初雁球場がありますがそれが東の末端です。初雁球場の西側が武徳殿です。つまり川越市内の台地の東端にお城がありました。本丸はこの東端部の崖の上にあったことになります。本丸は平屋で天守閣はありませんでした。武徳殿は本丸の一部で、その玄関口と考えていただければよろしいでしょう。 |
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10.菓子屋横丁 | |
菓子屋横丁は川越市内の西端、赤間川(新河岸川の上流域)近くにあります。街路の長さは100mくらい。そこに10件以上の菓子屋が並んでいます。 その昔は川越に物資を運んできた人たちがお土産として飴を買って帰ったとか。ところが川越駅周辺に商店街が発展した結果忘れ去られた街でした。今から10年程前はこの区域は数件の飴玉製造業が残っているだけでした。知る人ぞ知る程度の町でした。そのうちの1件が某テレビ局の取材を受けたことがあります。それがきっかけといえばきっかけだったか。市民もこの地域を再認識し今は川越市の観光ポイントとしてしっかり定着しました。一坪ちょっとしかないスペースで路上芸が催されたりするのです。川越市内はいま電線地中化に取り組んでいます。まるひろ通り・一番街・大正浪漫通りとここ菓子屋横丁が実施済みです。電線がないと何か日常的な感じがしないのですよね。屋並みが古い店もあり、まるでひとむかし前の世界に踏み込んだような感覚にとらわれます。 |
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11.一番街 | |
一番街は川越市内第1の観光ポイントでしょう。「小江戸・蔵作り」の拠点です。この南端に「時の鐘」があります。ここから北の街路は蔵作り街の復元改修が最もさかんなところです。観光客が道に溢れるところです。 電線地中化以前この道路の両端には狭いながらも歩道がつけられていました。だってこのあたりは川越市内から坂戸方面に抜ける交通の要衝なのですから。いまでも交通量が多いところです。それが電線地中化とともに歩道が撤去されて白線だけでの歩道表示です。するとどうなるか。確かに観光客には昔風を味わえます。 でも車にとっては大変です。通例、白線だけの表示ですと自動車が歩道側に入り込むことは多々あります。でも一番街は違います。人が車道に溢れるのです。 人のために交通が途切れることがあります。はやく一番街のほかに自動車用の道路を確保した方がいいと思うのですがね。左の写真2枚は一番街から少し南の地点から南北とを撮影したものです。休日の夕刻だから特にですが、とにかく車が多すぎます。 |
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12.商店街のこと | |
いまから20年程前、この通りを歩く人は大方が子供連れの家族でした。店も古くから続いた店で、いかにも地方都市のメインストリートの風情でした。だから集客能力が強かったのは前述のデパートでした。デパートに行けば屋上の遊園地で遊べたからです。次第にしもた屋(店をしまった商店のしゃれ)が増えていきました。ところが10年程前からでしょうか、次第に変身を始めたのです。 いま私のような年寄りはちょっと入りにくい若者向けの店が圧倒的多数です。例えばこの800メートルくらいの距離の中にスニーカーを販売している店が何軒あると思います。わき道にそれた店を入れると8件あるのです。そんな店も2年くらいの周期で入れ替わります。いつも流行に鋭敏です。だから近郷近在の若者がこの商店街を支持しているのです。さすが商人気質です。 地方のさびれていく商店街の方々がこの町を視察に訪れます。でもどうでしょう。この川越の商店街の変貌を取り入れようとすると自らが変質するか、さもなければ自己否定をしなければならないことにもなります。 |
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13.色町 | |
川越は商業都市だからだろうか、料亭や小料理屋が多い。商家の顧客接待や町衆の集会のための施設と思えばいいのだろうか。その中で喜多院の西側は少し趣が違う。いまはほとんど消えてしまったが1件だけ残っている。写真の建物は現在1階だけがレストランとして使われている。 それはそれとしてこの家屋の2階をよく観察してほしい。西日があたる時間がちょうど良い。2階のガラス窓から照り返した光の中にかすかに青や赤・黄色が見られるのである。色はすっかり褪せているので注意深い観察が必要である。この建物が活躍していた当時は夜な夜な酒と嬌声がこの町をにぎやかにしていたに違いない。その昔劇団四季の市村氏が日本テレビの番組「遠くへ行きたい」でこのあたりを色町といっていたが、華やかなりしころをしのばせる色ガラスである。 今はひっそり静かな町である。 |
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